オレゴンから、Hi♪

アメリカ西海岸のオレゴン州から、還暦過ぎのあれこれをつぶやきます

食事のスケジュール

30代後半を過ぎてから海外に住むようになって、里帰りすることがあると、毎回うんざりすることがありました

私の日本滞在中のスケジュールを、父が勝手に決めるんです

里帰りの飛行機代は、私が自分で払っているのに、私は、自分の帰国中のスケジュールを自由に組むことができない

 

父が私に尋ねることもせず、勝手にどんどん決めてゆくのは、滞在中の私の食事予定でした

朝、昼、晩、毎日、毎日、毎日です

異様じゃありませんか?

 

朝食は、父の家で○○を食べる(←こんなことまで?!って呆れません?)

昼は、xxでラーメン

夜は、△△で鮨

という具合に、私が帰国する数週間前から、すでに事前にこと細かく決めて、私にメールしてくるんです

もう、がんじがらめ・・・

決める前に、私の予定や都合を聞いてきたことは、一度もありませんでした

 

私にだって、ひさしぶりに会って食事をしたい友達がいて

ひとりで行きたい場所がある

 

という、当たり前のことが、父の念頭にはまったく、ない

そして、それに文句を言うと、激昂する

いつものパターンです

 

前にも書きましたが、父にとっての最大のもてなしは「旨いモノを食わせる」です

だから、確かに美味しいものを出すところへ連れて行ってくれました

母はすでに亡くなっていて、普段はひとり暮らしですから、父もこのチャンスに美味しいものを食べたかったんでしょう

父にとっては一石二鳥

 

だけど、行動の自由を奪われてまで、そもそも「会話」というものが成り立たないこの父親に、ある意味「食べさせられている」旨いモノは、私にとっては美味しさは半減、どころか、場合によっては、8割減・・・

 

 

当時は、Airbnbなんてなかったし、滞在中のホテル代を払う経済的な余裕もなかったので、帰国中は、父のところか近くに住む妹の家に泊めてもらっていました

一旦、父の支配下に入ると、もう行動の自由はない、って感じでした

人質状態・・・

 

こういうパターンの帰国が、何度か続いて、私は帰国することそのものが、だんだん嫌になってきました

 

 

 

握手

父と一つ屋根の下に暮らしていた頃は、夜遅くまで聞きたくもない話を延々と聞かされたり、父の暴言や暴挙をやり過ごさなければならないのは、ほんとうに嫌でした

 

さらに嫌だったのは、翌朝

出勤前の身支度を済ませた父が、前夜、遅くまで父のくだ話につき合わされて、まだ寝ている私の部屋に来て、ベッドの横にやってくる

「おい、昨夜はすまなかったな」

そういって、布団の中の私に「和解の握手」を求めて、手を差し出してくる

初めての時は、仕方なく、握手した、不本意だったけど

でもね、何度もそんなことが続くと、そんな握手、したくもないですよ

だけど、しないと許してくれない

「そんなこと言うなよ」

「いつまでも根に持つんじゃない」

また私が悪いコトになる

私は、ムクムク湧き上がるこの怒りをどこへ持っていけばいいのか、わかりませんでした

仕方ないので、行き場のないその感情は、自分のなかにぐーっと押し込めるしかない

 

もひとつモヤモヤしたのは

飲み会で夜遅くなり、乗り継ぎ電車の最終便に間に合わないと、父から家に電話がかかってくる

私はもう眠っているのに、母が私を起こしに来て「パパが○○駅まで迎えに来てって言ってる」

私が自分の飲み会で、終電を逃したら、1時間寒空の下、駅で行列してタクシーを待つのに・・・

超モヤモヤした!

 

 

鮨の順番

美味しいものを食べるのは、大好きです

幸せな気分になります💗

でも、誰とどんな会話をしながら食べるかによって、その美味しいものも、一気にまずくなってしまうのも事実

父は美味しい食事をまずくするひとでした

*******

お酒を飲むことと食べることが好きだった父は、長崎、広島、伊丹と引っ越した先々で、お客があると当地の名物やら美味しいものを食べに行きました

 

「旨いものを食わせる」ことが、父にとっての最大のもてなしであり、愛情表現だったと思います

でも、大金をはたいて、喜ばせたいはずの相手の気持ちには、いっさいおかまいなし、というよりも、人の気持ちというものが、恐ろしいほどにわからない人でした

 

海外在住も長くなった頃、里帰りした時に「鮨を食いに行こう」という父と一緒に、気は進まなかったけど、築地のすしざんまいへ行きました

カウンター席に並んで座り、運ばれてきた生ビールのジョッキを前に

「好きなものを頼めよ」と私に言い、父は慣れた様子でネタを板前さんに注文

カウンターでお鮨なんて、日本に住んでた頃からめったに行く機会もなかった私は、どれから注文すればいいか迷いつつ

ちょっと緊張しながら、いくつか頼んだ

 

話もほとんどせず、注文しながら食べるうち、父が

「そんな順番で食うもんじゃない」ときた

「え?どんな順番で食べるのよ?」と聞き返すと

「そんなことは、俺に聞くもんじゃないっ」

「初めて食うわけじゃあるまいし、人が食うのをみてりゃわかるだろうっ」と私を頭ごなしに叱りつける

 

カチーンと来たし、ムカついた

鮨屋のカウンターに座って、どういう順番でネタを注文するのかなんて、誰も教えてくれたことないし、だいたいそんなにしょっちゅうカウンターで鮨を食べることなんてない!

なんで、こんな嫌みなことを言われながら、この父親と並んで鮨をたべなきゃいけないのか、わからなかった

すでに、鮨の味なんてわからないほど、腹が立っていた

 

こんなこと言われながらご馳走してもらったって、美味しくもなければ、有難くもない

こんなんなら、自分で払って美味しく食べたほうがよっぽどましだ

父のおごりでふたりで鮨を食べに来るのは、これで最後にしようと決めた

 

 

食べ終わり、私が怒りに震えるようにして、先に立って店を出ると

いつものように、父は私の機嫌を直そうとしてくる

「コーヒーを飲んでいこう」

私は行きたくなかった、でも、一度言い始めると、私が頷くまで、この人は後へは引きさがらない

下手をすると、公衆の面前で大声で叫びだしかねない(実際やったことがある)

そんなのに巻き込まれたくない

氷のように固い表情のまま、ほとんど何も話さず、コーヒーを飲み、別れた

 

喫茶店で黙りこくった私に向かって、父は言った

「お前と俺は、ほんとうに合わないな」

 

合うわけがないと思った

 

父とふたりで鮨を食べに行ったのは、これが最後

 

父との外食、というのは、ふたりであっても、家族と一緒でも、大なり小なり、いつもこんな感じでした

 

母は、いつも同じものを注文する、と父からバカにされ

私が蕎麦屋で、うどんなんか注文しようものなら「蕎麦屋でうどんなんか食うやつがあるかっ!」と頭ごなしに怒鳴られたり

子供の頃は、自分が食べたいもの、というより、まず、父に怒られないものを選ぶようになりました

内心はビクビク、心は緊張・・・

 

 

ええっー?!

朝、起きて、パソコン開けて、ヤフー!ジャパンのニュースのタイトル見て、「ええっー?!」と思わず声が出ちゃった

 

『バッハ氏 首相に有観客検討要望』

 

って、前から変な人だなと思ってたけど、ここまでとは!

この発言の裏にあるのは、たったひとつ、お金 💰💵💲、しかない!

 

開いた口が、ふさがらん・・・!

 

 

ひと粒ダイヤのネックレス

ここでひとくぎりにします、と宣言した舌の根も乾かぬうちに

やっぱり、まだ出てきちゃった

 

ここからは、ほぼ、もう大人になってからのことなので

「うちの父親って、こういう人でさ・・・もう、参ったよ」と薄暗いバーか居酒屋で、お酒を飲みながら、思い出してる感じです

子供の私ではなく、オトナの私です

 

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戦時中のモノがない、食べ物もない時代に、多感であろう少年時代を過ごした父は

モノを買う時はよいものを

戦争中にカボチャばかり食べさせられたので、食べる物は、美味しいものを、と思っていたようです

戦後の高度成長期で、経済的なゆとりもあり、買い物も外食も、気に入れば、少々値が張っても、厭いませんでした

 

家具や調度品を選ぶセンスも悪くなく

私にも、薄い長方形のフレームに、薄っすらパープルがかったワニ皮のベルトがついたおしゃれな腕時計を買ってくれました

就職祝いだったかな

 

でも、贈り物にまつわる思い出には、今でも思い出すと苦い気持ちになるものもあって

 

東京で勤めていた私は、出勤していた平日に、父に呼び出されて銀座へ行きました

昼休みだったのか

銀座の和光で、高価なハンドバッグを選ぶためです

誰の?

高知に住む(あるいは、上京して大学に通ってたかも)私より幾つか年下の従妹のためでした

地下鉄二駅とはいえ、制服のままわざわざ会社から抜けてきて、高級なハンドバッグを選ぶのを手伝った私には、何もなし

あの有名な和光の高価なハンドバッグを従妹には買い与えるのに、私はそれを選ぶだけ

はい、不満でした

 

次は、ティファニーのシルバーのネックレス

従妹の大学卒業祝いか、何かだったのか

当時、東京の虎ノ門病院に難病の治療で入院していたおば(従妹の母)を見舞った時に

母が、従妹に渡すんです、あのパステルブルーの小箱を

ティファニーのシルバー・ネックレスに、喜ぶ従妹

えー、私だって欲しいのに

従妹にはプレゼントするのに、どうして私には買ってくれないの?と心の中で恨んだけど、親には言いませんでした

 

和光のバッグは私の好みではなかったし、ティファニーのネックレスだって、自分で買えばよかったんですが、そういう問題ではなく・・・

親戚である従妹にはすることを、どうして私にはしてくれないんだろう、と

 

 

極めつけは、当時人気だったひと粒ダイヤのネックレス

父の仕事の関係で、両親が兵庫県に住んでいる時でした

父が「買ってやる」というから

母と3人でデパートへ行きました

そこの外商に、日頃お世話になっている担当者がいたらしいです

きらきらかがやくダイヤモンドがならぶ、宝石売り場のショーケース

珍しくワクワクしました

小粒だけどキラッと輝くカットのものが気に入って、それが欲しいと言いました

 

なのに、そのダイヤは質が劣るとか、なんとかいろいろ言われ

結局、外商の人と父が勧めるものを、買うことに

そういう方向に話が推し進められて行く時点で、私はむくれて、投げやりになりました

 

商品を見て、私が気に入って選んだのに、それじゃなく、自分がいいと思うものを買い与えるんなら、なんで私を一緒に連れてくるのよ

こんなんなら、自分たちで決めて買ってきたものを私に渡してくれればいいのに

と、私はどんどん不機嫌になるばかり

 

きれいに包装された高価なネックレスの小箱を受け取って、口から出た「ありがとう」は、形ばかりで、心なんてこもっているはずなかったです

それどころか、言いたくもない「ありがとう」を無理やり言わされている感すらありました

 

そのネックレス、つけるたびに湧いてくるのは、うれしさよりも、買った時の苦い思い出ばかり

 

ハワイに移住した後、今のオットと借りていた部屋に空き巣が入った時、そのネックレスも盗まれました

数えるほどしか持ってないジュエリーのうちで、一番高いものだったから、その意味ではがっかりしたけど、愛着はまったくなかったです

お勤め時代に自分で気に入って買った、くずダイヤが散りばめられたパヴェリングも一緒に盗まれて、こっちのほうがはるかに悲しかったな

 

こんなふうに、たとえ父が怒鳴らない時でも、私の心はしばしば傷つきました

 

 

 

 

 

認めて欲しい気持ち

ここしばらく、私の辛かった子供時代のことを書いてきました

 

これを書くことで、私が欲しかったのは

小学生くらいの自分に戻って

「私のうちって、私が小さい頃からずーっとこんなにしんどかったの」

「嫌なことがいっぱいあったの」

「誰も私の気持ちをわかってくれなかった」

「淋しかったの」

と訴えて、自分がどんなに辛かったか聞いてもらって、わかってもらい

 

「そうだったの、それは辛かったね」

「淋しかったね」

「それは大変だったねぇ、よくひとりで頑張ったね」

「よしよし」

となぐさめてもらいたかった

 

んだなぁ、と思います

 

心理学やカウンセリングでは、こういうことは究極には、自分が自分にしてあげること、と言われますが、やっぱり、自分以外の誰かにわかってもらって、認めてもらいたかった

承認欲求、かな

 

頂いたコメントはもちろんのこと、皆さんが残してくださった★は、おひとりずつからの「大変だったねぇ」「それは、辛かったねぇ」の言葉と思っています

どうもありがとうございました

 

読んで楽しくなる内容ではないのに、訪問して読んでくださったこと、ほんとに有難く思っています

 

これまでブログに書いたことは、いわば氷山の一角だけど、心の中にいつも大きくしこりになっていたことは、書いたと思うので、ここでひとくぎりにしようと思います

 

また、書くかもしれませんけど・・・!

 

 

父のこと

去年の9月に88歳で他界した父は、大変な人でした

会社勤めも長くなって、嫁入り先の心配をされ始めた頃、会社に来ていた親切なお掃除のおばさんから「私の親戚に、体が不自由だけど、いろんなことがわかるひとがいるから、結婚のこととかみてあげようか」と言われて、お願いしたら、その返事を持ってきた開口一番

「こんなこと言うのはなんだけど・・・お父さんは、異常な方なの?」

へぇ、そんなことわかるんだぁ、と思いました

 

小学生の頃は、誕生日とかお出かけとか、楽しいはずの行事が、最後には父の機嫌が悪くなり、怒鳴り声で楽しかった一日がめちゃめちゃになる、というパターンばかりで、いつしかその楽しいはずの日が来ても「今日も、きっと最後は、パパが怒って終わりになる」と思っていました

 

私が高校生、大学生、社会人になってからは、父の言葉の暴力はさらにひどくなりました

ある晩、父のあまりの暴言に耐え切れず、母が玄関から飛び出していった時、父は「○○、探しに行ってこいっ!」と私に向かって怒鳴りました

あれじゃあ、母が聞いてられないのも当然だと思ったし「パパが怒らせたんだから、自分で探しに行けばいいじゃない」といったら、「お前は冷たい女だ!」と吐き捨てるように言われました

 

お酒を飲んだうえで、あまりにもくだくだと聞きたくもない話がしつこく続くので、嫌になって自分の部屋へ逃げ込んでドアに鍵をかけると、ドアが破れんばかりにドンドン叩き、仕方なくドアを開けた私は、また食卓へ連れ戻されて、座らされ、延々と批判やら説教やらを聞かせられました

仏頂面で座った私は、父の話は左から右へ流すだけ、感覚を麻痺させて耐えるしかありませんでした

 

ある時は、父の郷里である高知で、自分の姉をこたつに座らせ、彼女の欠点(父が欠点と判断したこと)について、あれやこれやと執拗に伯母を責めたて、批判し、ついにはたまらなくなった伯母は泣き出してしまいました

女のくせに魚をおろせないことがどれだけ非常識かに始まって、伯母に対する批判はどんどん拡がっていきました

私は、父の横に座らされ、その聞くに堪えない罵倒を聞き続けなければなりませんでした

 

こういうことは、ほんとうに何度も何度も繰り返され、ほとんど日常茶飯事でした

 

母が精神科の病棟に入退院を繰り返すようになった時、ある晩、父は函館に住む母の長兄の自宅に電話をして「結婚前から、こういう病気があったことを知っていたはずだ!」「責任を取れっ!」とものすごい剣幕で、受話器に向かって怒鳴り散らしました

後ろで聞いていた私は、恐ろしかったし、これでもう親戚の縁は切れた、と思いました

 

父の常軌を逸した言動は、他にも、大きなことから小さなものまで、山のようにあって、とても書ききれたものではありません 

 

ただし、父がこういう言動を取るのは家族や親戚に対してだけ

会社関係の人たちや、学校時代の友達に対しては、ものがわかった、常識あるひととして行動しているので、皆は父にこんな面があることは知らないのです

だから、辛いと思っても、誰にも話せませんでした

父のことを「立派なお父さん」と思っている人たちにわかってもらえるとは、思えませんでした