ヒロシマの日
陽当たりがいまいちなので、ミニトマトやナスの苗は、ずいぶん前にポットに移して
陽当たりの良い場所に移動しました
そこに古くなったじゃがいもを埋めてみたら・・・
芽が出てきました!
じゃがいもが収穫できるのか?いつ?グーグルして調べねば
ポットに移して、陽当たりのいいところに移動したナス
小さいけれど、つやつやのナス♪
誰かにかじられたけど、そこだけ切り取って、ふたつともぬか床に入れました
今晩出してみようかな
日本時間の今日(8月6日)は、広島の原爆記念日です
私は、父の仕事の転勤で、小学校の3年間を広島市の西にある郊外の町ですごして、小学校もそこで卒業しました
その前3年間は、長崎市の原爆爆心地のすぐ近くに住みました
広島ではそれほどに感じませんでしたが、長崎では9日の記念日になると
町の空気が違うことを、子供ながらに感じました
何とも言えない悲しみが、空気に漂っているというか、染み出しているという感じです
ポートランドへ出かけて、この建物(矢印)を見ると、いつも必ず広島の原爆ドームを思い出して、なぜ、こういうデザインの建物を設計したんだろう、とこれもまたいつも思います
(Portland Business Journal から転載)
数日前に、こちらのHistory Channelというチャンネルでやっていた、"Hiroshima"という番組を見ました
これまで、私がまったく聞いたことのなかったことを知りました
原爆の開発(「マンハッタン計画」)については、ルーズベルト大統領しか知らなかったこと
=副大統領トルーマン、上院、下院の議員たち、誰もその開発計画を知らなかった
=ルーズベルト大統領の急死に伴って、大統領に昇格したトルーマンは、その時点で初めて、マンハッタン計画のことを知った
原子爆弾を作るために、人里離れた山の中に、新しく大きな町を作ったこと
そこで何千人もの人が働き、その家族が住んだこと
ほとんどの人は、自分の仕事が原爆製造の一部であることを知らなかったこと
原爆投下の直前に「日本に警告せずに投下し、無差別に殺戮することに反対する」科学者たちが連名でトルーマン大統領に書簡を送ったが、軍部が耳を貸さなかったこと
米側は、原爆投下後の放射能の影響を桁違いに軽く見ていたこと
投下後の被害状況を調査するために、広島、長崎へ入ったアメリカの科学者たちによると
医者や市民が、調査に協力的だった、この協力なくしては、データの収集はできなかった
医療従事者や市民、誰ひとりからも、嫌がらせ、うらみごとなどを聞かなかった
たったひとり、原爆投下を面と向かって非難したのは、東京の科学者(大学教授)ひとりであった
市民から抗議や恨み言がでなかったのは、あまりの被害にまだぼうぜんとしていたからかもしれないし、アメリカ人を恐れていたのかもしれません
私には想像もつきません
ヒロシマとナガサキ、両方に住んだことのある私に、何かできることはあるんだろうか
年を重ねるほど、そう思うようになってきました
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