お隣と険悪ムード
お隣のインド人夫婦と、ますます険悪な感じになってきちゃった
旦那は悪い人ではない、が、庭木のこととなると・・・私はモヤモヤがたまってた
奥さん(インド人)は、あまり話したことがないのでよく知らないが、気が強そうな人に見えた
彼の植木が領域侵犯していることは、先日、オットを介してやんわり話してもらった
その時点で、私は内心かなり怒っていたので、自分で話すと、冷静に話せないような気がしたから、オットを引っ張り出した
でも、普段庭のことは何もしないオットに急に出てきてもらうより、やっぱり私が話したほうがよかったような気がする
その後、彼とは一度挨拶しただけで、私も向こうも話しかけない
避けてる感じ
気まずいけど、仕方ない
そこへきて、この数日、朝の7時過ぎから、隣の奥さんとその友達(インド人)が大きな声で、前庭でおしゃべりをするようになった
30分くらい盛大に続く
私の寝室のすぐ下なので、毎朝そのかしましい声で目が覚める
そのまま眠りつづけたいなら、耳栓しないと無理
耳栓してもかすかに聞こえてくる
今朝、日曜日も、ふたりのおしゃべりの声で起こされた
なので、パジャマのまま、ぼさぼさの頭のまま、顔も洗わずに
彼女たちがおしゃべりしているところへ行って
「もう少し静かにしゃべってもらえませんか」と言った
返事は、何だっけ・・・覚えているのは
「あなたの家の前じゃなくて、自分の家の前で話しているんだから、何も問題ないわ」
とかなんとかで、「あら、うるさかった?ごめんなさい」なんて感じは、表情にも言葉にも、これっぽっちも、ない
文句を言うあなたが、おかしい、こっちは何も悪くない、という態度
それにけおされて、つい "I'm sorry" と言ってしまった自分にハラが立つ
言われたら、言い返す準備はしてなかった
あなたが早朝から大きな声で、じぶんちの前でおしゃべりする権利もあるだろうけど
じゃ、私が自分の家で静かに眠る権利はどうなるんですかね?
私は、他人と交渉するというスキルが、まったくないみたいだ
隣近所と険悪になったことは、今まで一度もないけど
だからといって、機嫌を取るつもりもない
あーあ・・・
自分の気持ちを尊重する
毎日お邪魔しているブログで、ずいぶん以前に読んで、ハッとしたことがありました
私よりも10歳ほどご年配のCさんは、鹿児島出身の女性で、大学卒業後にカリフォルニアに国際結婚のために移住され、今もずっとそちらにお住まいです
その方が、鹿児島のおばあちゃまの思い出を、ある時ブログに書いていらっしゃいました
小さい頃から、大家族に囲まれて育ち、同居のおばあちゃまとも一緒にデパートへ出かけて、お昼を食べたり、クリスマスケーキを買ってもらったり、お部屋で美味しいお菓子を一緒に食べたり、可愛がられていたそうです
でも、おばあちゃまには、息子であるCさんのお父様に、ずいぶんとつらくあたった過去がおありだったそうです
アメリカにお嫁に行くときに、おばあちゃまから「手紙を書いてね」と言われていたので、Cさんからの手紙を待っているだろうとわかっていたけれど、そのおばあちゃまが、Cさんの大好きなお父様に辛くあたったことが、こだわりになって、一通もお手紙を書かなかったそうです
今は、おばあさまの気持ちを思い、そのことをとても後悔されている、とありました
これを読んで私は、ハッとしました
これでもいいんだ・・・と目から鱗が落ちる思いがしました
自分にはよくしてくれた祖母だけれど、自分が大好きな父に辛く当たり、悲しませたことが、どうしても許せない
だから、「手紙を書いてね」と言われたけれど、どうしても書く気持ちになれなかったから、待っているとわかっていても一通も手紙をかかなかった
だったら、私には、その手紙を書く気になれない理由が、山ほどある
父や母を遠ざけたくなる理由が、山のようにあったんだから
そして
どんな気持ちであれ、それがその時の自分にとっての正直な気持ちなら、相手の気持ちよりも、自分の気持ちを尊重していいんだ・・・初めて気づかされました
そして、その時自分の気持ちをちゃんと尊重して、その通りに行動したからこそ、後になって、相手の気持ちが分かった時に、また、心からの後悔の気持ちを経験できるんだ・・・と思いました
その後悔は、苦いものだと思うけれど、まがいものではありません
後悔という、苦いけれど、ウソのない、本当の感情
その時、自分の気持ちを曲げて、ほんとうには心が納得していないのに、相手を喜ばせるだけのために行動したら、その行動に真心はなく、真心のない形だけの行動で相手を喜ばせても、その後、自分に残るのは罪悪感と虚無感でしかないと思います
自分の心に、自分の気持ちに、ウソをつかない
自分の気持ちを、ないことにしない、尊重してあげるって
とても大切なことなんだ、と今になって思っています
置いてきぼり
自分が育った家庭環境のことを振り返ると、我ながら「はぁー、なんでまた、こんなに嫌なことばかり重なったんだろう」とため息がでます
自分でも「ほんとにこれ全部、起こったことなのかな?」「自分の思い違いとか記憶ちがいじゃなくて?」とか、疑いたくなることもあります
だって、これでもかってほど、なんだもん・・・💦
(父のことは、まだ書いてませんし)
なので、人によっては「自分のことをかわいそうと思って欲しいから、大袈裟に作り話してるんじゃないの」とか、逆に「いやいや、世の中にはもっと気の毒な環境で育ったひともいるんだから、甘えるんじゃないわよ」と批判する人もいるかもしれないし
それが怖くて、人に言えなかった・・・ってところ、あります
プラス、外から見た「普通にしてる自分」とのギャップが大きすぎて、そういう「暗い自分」を見せると、驚かれたり、引かれたりしそうで、それも怖いし
これは、もっぱら大人になってからですが
例えると、満水(抑え込んでいた感情)になったダムから、少し放流しようとバルブを開けたら、とたんに回りに亀裂が入って、ダム崩壊・・・ってことになりそうで
崩壊しちゃったら、どうすればいいかわからないから、バルブ開けたくても、怖くて開けられない
で、今、このブログに書いてる、ってことは、そのバルブを小さく開けた、ってことで
回りにヒビが入るのかどうか・・・まだわかりません
昨日、森林公園を歩いていて、ふと思ったんですが・・・
あー、これって、小さい頃の、悲しくて、拗ねて、強がって、ソッポ向いた私が、「ねぇ、私まだここにいるんだよ!忘れないでよ!探しに来てよ!迎えに来てよー!」って、私の注意を引こうとしてるんだ・・・と
子どもだった私の気持ちをわかろうとしてくれない大人たちに背を向けて、拗ねてうつむいてしゃがみ込んでるけど、横目でそっと、誰かがこっちに来てくれないか待ってる
「こっち来ないでっ!」は、ほんとは「早く助けに来てよー!」の意味
だから、これまでも、本読んだり、セミナーに行ったり、カウンセリング受けたり、いろいろやってきて、やっと心の落ち着きと平和を取り戻せた気がして、楽しく過ごせるようになってくると、またぞろ「心の闇」に引っ張り込まれてしまうのは、その闇のなかで今も助けを待ってる小さい私が、今の私を呼んでるから、なんだ
自分が楽しく過ごせるようになると、心の中で今も助けを待ってる小さな自分がいることをすっかり忘れてしまう
結果、この子を暗闇の中に、置いてきぼりにしちゃってる
このことは、カウンセラーさんに言われたことがあるし、本でも読んで、理解していたつもりだったけど、今回、初めて「実感した」気がする
でもねぇ、この子、すごいのよ、拗ね具合が・・・
「辛かったねぇ」「悲しかったねぇ」「長いこと、置いてきぼりにしちゃってごめんね」って、声を掛けても、「今頃何よ!あっち行けっー!」ってわめきそうなんだもん
私は子育ての経験がありません
さらに、私は気が短いので、あんまり拗ね続けられたら
「そう、ならもう知らない!」って言っちゃいそう(あー、冷たい・・・)
どうしたらいいんだろう・・・
母のこと
母は、若い頃から美人でスタイルもよく、傍から見れば、明るくてよくできた奥さんだったかもしれません
でも、私が大学生か社会人になった頃、また私に愚痴でも言っていたんでしょう、その時「自分を大事にするって、どういうことなのかわからない」と母が私に言いました
父が課長に昇進して東京から長崎へ栄転になった時、「課長夫人になるんだから、がんばらなきゃ」と張り切り、ほどなくして、心の病を得ました
私は小学校低学年だったので、憶えていません
その後も、私の学生時代、社会人になった後と、何度か再発して、最終的には精神科で入退院を何度か繰り返した後、寛解ということで父とふたりで暮らす家に戻りました
その直後に、親戚の不幸があり、それをきっかけに状態が急に悪化して、緊急入院させてもらった病院で、2週間もたたないうちに急死しました
まだ、59歳でした
家に戻る前に、健康診断を受けていて、亡くなった後、結果が戻ってきましたが、どこも悪いところはありませんでした
鬱が極限までひどくなると、しゃべれなくなり、体も動かなくなると、この時初めて知りました
車いすに座って、目だけはしっかり見開いている母に向かって、「大丈夫だよ。○○(妹)とふたりでちゃんと面倒みるから、安心してね。ゆっくり治そう」と母に声を掛けました
母は、私の言ってることが、わかっているように見えました
母は、これ以上娘ふたりに迷惑をかけたくないから、生きることをあきらめたんだ、と思います
そんな母だったので、姑のこと、夫のこと、自分のことでもう精いっぱいで、私の気持ちまで考える余裕がなかったんだろうと思います
そうじゃなければ、まだ小学生だった私をカウンセラーにはしなかったはず
もうひとつ私をいらだたせたのは、母がなんとなく私に遠慮しているような気配があったことです
「お姉ちゃんは食べ方がきれい」とか、折々褒めてくれましたが、私にはかえって空々しく聞こえました
うわべだけ、優しいことを言ってるけど、本気で私のために向き合ってくれていない気がした
だから、母のことが、信じられなかった
40をとっくに過ぎたある日、ネットのブログである記事を読みました
それは、運動会のリレーに出ることになっている中学生の娘さんが、お母さんにした質問でした
娘「お母さん、リレーでね、もしバトン落としちゃったら、どうしたらいい?」
母「あら、カンタンじゃない。拾って走ればいいのよ!」
これを読んで、私はいきなり号泣してしまった
「ええっ?!こんな簡単なこと、お母さんに聞いていいのっ?!ずるいっ!」と思った
こんな簡単なことを母に尋ねたことのない、尋ねようと思ったこともない私は、大泣きしました
どれだけ、自分がいろんな思いを抑え込んでいたのか、不安なのに不安じゃないふりをして、わからないのにわかっている振りしていたのかを、どんなに親の前で強がっていたのか、を40すぎたその時、目の前に突き付けられたようで、あの頃の子供だった自分がすごくかわいそうになってしまったんです
この時は、もう母は亡くなった後でした
何度も何度も、転校生
おばあちゃんはそれなりに私の味方だけど、肝心の母とは心のつながりが持てず、安心して甘えることができないどころか、反抗的になった私は、母をはねつけるようになりました
よって、母は私の安全基地どころじゃなかったです
私の心の安全基地になってくれる人は、まわりにいませんでした
そんな家庭環境なのに、うちは父の転勤の度に、一家でほぼ3年おきに引っ越しました
小学校は、神奈川県の鶴見で入学して、長崎へ転校して、広島で卒業
広島の時は、ひどかった
引っ越し当初、短い間借り上げ社宅に住んで、その後、広電(路面電車)で幾駅か西へ行った場所に新築された社宅へ引っ越しました
ところが、私の親は、最初に住んだ地域の公立小学校へ、私を越境通学させました
理由は、そっちの小学校のほうが「程度が高い」から・・・ (どんだけ・・・?)
私は、通った小学校で、放課後、毎日、校庭に生徒が誰もいなくなるまで残っていました
学校の先生に「どうしてそんなに遅くまで、ひとりで残っているの?」とか尋ねられた記憶は、ありません
母や祖母から、越境通学をしている私を心配するような言葉は聞いたことはなく、「どうしてそんなに学校に残っているの?」と尋ねられた記憶もありません
うちの大人たちは、子供の心は鉄のように頑丈で、打たれ強い、とでも思っていたんでしょうか?
私はずっとひとりっ子でしたが、私が10歳の時、広島で妹が生まれたので、大人たちは妹の世話で忙しかったのか
学校が休みの日は、隣の社宅に住んでいた同じ年頃の男の子ふたりと自転車を乗り回して遊んだり、あとは、ひとりで遊びました
小さかったこともあるでしょうが、どの小学校でも「仲良し」といえる大好きなお友達がいた覚えがありません
冷めた子供だった私は「どうせまた、3年たったら引っ越すんだし」とか思っていました
もうすっかり自分のまわりで起こる出来事を、斜めに見るようになっていました
小学校卒業と同時に、兵庫県へ引っ越して、そこで中学校に入学しました
中2になって、奇跡のようなことが起きました
なんだかしらないけど、そのクラス、全員が仲がいいんです
定期試験の前に、仲良しグループが早朝集まって、最後のテスト勉強して、わからないところを教えてもらったり
休みの日に、皆で森林公園へ行ってバドミントンしたり、スケートリンクに行ったりしました
私は相変わらず、冷めてシラケた子供をやっていて、「私はスカートなんて履かない」と宣言したり、皆で公園に遊びに行ってもひとり木に登って黄昏ていたり・・・
かなーり突っ張っていたのに、誰ひとりそんな私をとがめることもなく、仲間外れにすることもなく、ふつうに一緒にいてくれました
今でも不思議だけど・・・
でも「楽しいことは長くは続かない」という私のそれまでの経験を証明するかのように、またやってきました
父の転勤
しかも、中3の秋
しかも、兵庫県は当時、兵庫県方式という独自方式を採用していて、どの高校へ進学するかは中学の偏差値で決まる、というシステムだったので、誰も受験勉強なんかしてませんでした
なのに、中3の秋に、受験勉強が必要な東京へ、転校ですよ!
うちの親は、いったい何を考えていたのか・・・
今なら、登校拒否になって、鬱になってもおかしくないでしょ
シラケて、冷めた私は、もちろん「そんなの、どうってことない」という態度を取りました
でも、心の中では、このままここに残る方法ってないんだろうか、と思いました
だって、せっかく、こんなに「私のまんま」でいても大丈夫な友達ができたのに
だけど、もちろん中学生が下宿するなんて、非現実的なことになるわけもなく
新大阪駅から、東京へ向かう日が容赦なくやってきました
そこで、またびっくりしたのが
もう間もなく、東京行きの新幹線が発車しようかという時、ホームに走り込んできた見慣れた顔ぶれ・・・!
中2の時の仲良しだったクラスメイトたち数名が、学校の先生に早退の許可をもらって、新大阪駅まで大急ぎで見送りに来てくれたんです
その時は、驚くばかりで、時間もあまりなく、ろくにお別れも言わずに、ただただ、車内から手を振ったように思います
うれしかったのに、冷めた子供の仮面の外し方もわからず、一緒にいる親に弱いところを見せたくないから、泣くこともできず
今、書いてて泣けてきました・・・
友達と別れるのが悲しいのと、遠くまで見送りに来てくれたことがうれしいのと
あの時はどうしたらいいのかわからなくて、泣けなかった涙
今年最初のガーデニアとエキナセア
毎日、ドロドロしたブログが続いて、なんだか申し訳ない気持ちです
そんな重い内容なのに、読んでくださって、有難うございます
感謝の気持ちに、きれいなお花を
今年最初のガーデニアの花
うっとりするほどいい香りです
咲き始めたエキナセアを飛び回る蜂