オレゴンから、Hi♪

アメリカ西海岸のオレゴン州から、還暦過ぎのあれこれをつぶやきます

何度も何度も、転校生

おばあちゃんはそれなりに私の味方だけど、肝心の母とは心のつながりが持てず、安心して甘えることができないどころか、反抗的になった私は、母をはねつけるようになりました

よって、母は私の安全基地どころじゃなかったです

私の心の安全基地になってくれる人は、まわりにいませんでした

 

そんな家庭環境なのに、うちは父の転勤の度に、一家でほぼ3年おきに引っ越しました

小学校は、神奈川県の鶴見で入学して、長崎へ転校して、広島で卒業

 

広島の時は、ひどかった

引っ越し当初、短い間借り上げ社宅に住んで、その後、広電(路面電車)で幾駅か西へ行った場所に新築された社宅へ引っ越しました

ところが、私の親は、最初に住んだ地域の公立小学校へ、私を越境通学させました

理由は、そっちの小学校のほうが「程度が高い」から・・・ (どんだけ・・・?)

 

私は、通った小学校で、放課後、毎日、校庭に生徒が誰もいなくなるまで残っていました

学校の先生に「どうしてそんなに遅くまで、ひとりで残っているの?」とか尋ねられた記憶は、ありません

母や祖母から、越境通学をしている私を心配するような言葉は聞いたことはなく、「どうしてそんなに学校に残っているの?」と尋ねられた記憶もありません

うちの大人たちは、子供の心は鉄のように頑丈で、打たれ強い、とでも思っていたんでしょうか?

 

私はずっとひとりっ子でしたが、私が10歳の時、広島で妹が生まれたので、大人たちは妹の世話で忙しかったのか

学校が休みの日は、隣の社宅に住んでいた同じ年頃の男の子ふたりと自転車を乗り回して遊んだり、あとは、ひとりで遊びました

 

小さかったこともあるでしょうが、どの小学校でも「仲良し」といえる大好きなお友達がいた覚えがありません

冷めた子供だった私は「どうせまた、3年たったら引っ越すんだし」とか思っていました

もうすっかり自分のまわりで起こる出来事を、斜めに見るようになっていました

 

小学校卒業と同時に、兵庫県へ引っ越して、そこで中学校に入学しました

中2になって、奇跡のようなことが起きました

なんだかしらないけど、そのクラス、全員が仲がいいんです

定期試験の前に、仲良しグループが早朝集まって、最後のテスト勉強して、わからないところを教えてもらったり

休みの日に、皆で森林公園へ行ってバドミントンしたり、スケートリンクに行ったりしました

私は相変わらず、冷めてシラケた子供をやっていて、「私はスカートなんて履かない」と宣言したり、皆で公園に遊びに行ってもひとり木に登って黄昏ていたり・・・

かなーり突っ張っていたのに、誰ひとりそんな私をとがめることもなく、仲間外れにすることもなく、ふつうに一緒にいてくれました

今でも不思議だけど・・・

 

でも「楽しいことは長くは続かない」という私のそれまでの経験を証明するかのように、またやってきました

父の転勤

 

しかも、中3の秋

 

しかも、兵庫県は当時、兵庫県方式という独自方式を採用していて、どの高校へ進学するかは中学の偏差値で決まる、というシステムだったので、誰も受験勉強なんかしてませんでした

 

なのに、中3の秋に、受験勉強が必要な東京へ、転校ですよ!

うちの親は、いったい何を考えていたのか・・・

今なら、登校拒否になって、鬱になってもおかしくないでしょ

 

シラケて、冷めた私は、もちろん「そんなの、どうってことない」という態度を取りました

でも、心の中では、このままここに残る方法ってないんだろうか、と思いました

だって、せっかく、こんなに「私のまんま」でいても大丈夫な友達ができたのに

 

だけど、もちろん中学生が下宿するなんて、非現実的なことになるわけもなく

新大阪駅から、東京へ向かう日が容赦なくやってきました

 

そこで、またびっくりしたのが

もう間もなく、東京行きの新幹線が発車しようかという時、ホームに走り込んできた見慣れた顔ぶれ・・・!

中2の時の仲良しだったクラスメイトたち数名が、学校の先生に早退の許可をもらって、新大阪駅まで大急ぎで見送りに来てくれたんです

 

その時は、驚くばかりで、時間もあまりなく、ろくにお別れも言わずに、ただただ、車内から手を振ったように思います

うれしかったのに、冷めた子供の仮面の外し方もわからず、一緒にいる親に弱いところを見せたくないから、泣くこともできず

 

今、書いてて泣けてきました・・・

 

友達と別れるのが悲しいのと、遠くまで見送りに来てくれたことがうれしいのと

あの時はどうしたらいいのかわからなくて、泣けなかった涙